![]() Dear My Friends/トラウマ |
冒頭の歌い出しの瞬間から、ぶわっと聴く者を包み込むような圧倒的なパワーを感じる。
ストレートな言葉、ストレートなメロディ、そしてストレートな歌声。 でも単なる“まっすぐさ”とは少し違うストレートさ。 やりたいことをやる。歌いたいことを歌う。そういった欲望と行動を直結させたいさぎよさが、ダイレクトにズバッと飛び込んでくるようなストレートさ。それも剛速球の。 “人間を 憎みたくて… 憎めなくて… 歌ってる” “トラウマすら受け止めて生きる こんな私を誰か包んで” 彼女の背負っているものの深さ、ひとりの女の子としてのたくましさ、けなげさを感じる。 たとえ自分の受けた傷がどれほど深いものであっても、どんな過去・悩みを持ち、どんな性格をしていようとも最終的には自分がそれを受け入れるしかなく、人に何かを伝えたい時には大きな声ではっきりと伝えるしかなく、やりたい事がある時には現実に立ち向かいやるしかないのだ。 そんなシンプルだけど大切なメッセージを受け取った。 これから僕にとっては目の離せない大事なアーティストになるような気がする。 |
![]() 限界集落ーMarginal Village |
65歳以上の高齢者が人口の50%を超え、独居老人世帯が増加し、共同生活の維持が危機的な状況に陥った集落のことを、「限界集落」、というらしい。その現場をリポートしたのがこの本である。市場自由化等による林業や稲作農業の衰退、過疎化・少子化による学校の統廃合、市町村合併による村落の周辺化などにより、集落の再生産力は著しく減退しており、今後、423の集落が10年以内に消滅する、ということである。
愕然とさせられる。が、著者(写真家)はそうした状況を丁寧な文章によって淡々と記述し、集落を取り囲む自然やそこで暮らすじいさんばあさん達の姿や表情を鮮明な写真でうつしだしていく。その文章に妙な感傷や社会告発意識はほとんど見られないが、けれど各地の集落住民たちの生業の困難さや、若者に見放されたような気のするさびしさ、過去にあった不幸な事件や、未来に対する展望の持てなさ、等々がそこには簡潔に記され描き出されており、これが数々の美しい写真とあいまって、強烈な印象を残す。 |
![]() これから研究を書くひとのためのガイドブック ライティングの挑戦15週間 |
別のレビュアーの方も書いていらっしゃいますが、「一文一義」・「抽象度」・「接続詞」など、論文の書き方を科学するという面では大変よい本です。
既に論文を書いている人にとっても、自分の書いている際のテクニックを再確認する助けになります。学生の指導の際にも有用な概念がおおく盛り込まれています。 しかし、分野ごとの違いに配慮するという態度を見せながらも、やはり、もっとも分野ごとの違いが現れる学術論文の「客観性」についての考察が大変甘いといわざるを得ません。 ことに、「私語り」という章などは、著者を( )にいれてしまう旧来の学術論文の形式をスタンダードとしており、社会学や口承記録を扱う歴史学、文化人類学、一部の文学などで書き手のスタンスやポジショナリティが問われるようになってきていることは、一部の例外とされてしまっています。(本来、「私」を論文の中で明示するのは、旧来の学術論文が「客観」と「普遍」を僭称してきたことへの批判だったはずです。) それだけならまだしも、「私語り」という表現をしているために、論文で著者自身をメタから分析する記述法を、あたかも単に自分の体験や主張についての語りを垂れ流すことと同じであるかのように誤解させてしまいます。書き手のスタンスやポジショナリティを明示するのは、書き手の無意識の前提に対する反論可能性を担保する手法で、「私」を語ればそれでいいというわけではないのですが…。 社会調査法やインタビュー、インフォーマントとのやりとりについても、(本文での記述が浅いのはともかく)誘導されている参考文献が、全く実用的でない概論・哲学を述べた本などが多いこと、社会科学分野でスタンダードになっている文献がまるまる落ちていることなど、これだけ読んで学生さんが安心してしまったらちょっと困るなと思いました。 これならもっと書き方に特化して、調査法やら、質的データの扱いやらは、詳細な参考文献をつけてくれた方が、誤解がなくていいなあ。 全体的に、著者二人が人文科学分野の方ということもあってか、理科系分野との違いには自覚的でも、社会科学分野との違いにはかなり雑駁な認識をもたれているように思います。書き方の部分がいいだけに残念です。 社会科学分野の学生に読ませるときには、注意が必要でしょう。 |